在宅看護、在宅死のすヽめ 〜家で死ぬということ〜

 私の理想とする社会は、全ての人がたとえ病気や障がいを持っていようともその人のやりたいことをやりたい場所でやりたい人と一緒にすることができる「幸せ」というものを持って生活することができる社会だ。そのためには病気や、障がいが原因で療養する際に本人が望むのであれば病棟ではなく在宅、地域の中での療養を受けられるような環境や、制度を作っていくことが今の社会に必要なことだと考えている。しかしながら今の現状を見てみるとそれを日本国内にはまだ多くの障害があるためそれをうまく実現できていない。私の理想とする社会を実現させるために私は2つのことを変える必要があると考えた。

 まず一つが人々の意識だ。『聖路加国際病院 訪問看護科ー11人のナース達』の中に掲載されている「末期のガンになったらどこで療養したいですか」とうアンケートで最後まで自宅で療養したいと考えている人が10.8%自宅で療養したい、しかし必要ならホスピスで療養したいと考えている人が49.2%本当は自宅がいいが、必要なら病院で療養したいと考えている人が20.5%いる。つまり在宅で療養したいと考えている人が全体の約8割いるということだ※1。そのように考えている人が大勢いるのにもかかわらず今の現状はそれをできない、またはしづらい社会状況にある。

 私は本人が望んだ死に方ができないということはその人の人生、その人を看取る家族やサポートをしてくれている人に少なからず後悔を残してしまうことに繋がると考えるため、私は在宅での療養をしやすい環境を作ることが今の社会に必要なことである。また、周りの人々の病気や障がいを持っている人たちへの意識も変えなければならない。例えば認知症を持っている人がいると、本当は少しサポートをすれば普通の生活ができるのではないのにもかかわらず、人々の知識がないがために認知症を持っている人を家の中に監禁しがちな状況がある。これらを変えることで人々の幸せな生活が実現できると考えている。

  次に二つ目は療養する人の周りの環境である。なぜならその人の家というのは家がある場所から、家具の配置、カーテンの色はもちろん家にある傷や汚れの一つ一つに至るまでその人の思い、思い出、命がその場所に息づいているためその人にとってより安心できる場所となっているからだ。また、在宅の中ではその人がもともとくらいしていたコミュニティの中で暮らすことができるため、人との繋がりを感じたまま「人間」らしく生活ができる。

 しかしながら、病院というものは施設の性質上病気を治すために一番効率的で、合理的な環境が揃っているため、そこには生活感がなく殺風景な部屋となってしまっている。そして、病院の中では自分のベッドの周りを、カーテンで囲うか、個室になるため周りとの環境がなくなり、「人間」として生きることができなくなる。人間は人とのつながりの中でしか自己を確立することができない動物であるため、人として生きるためには他者との関わりが必要なのだ。確かに病棟というものは短期の入院で病気を治すという意味においてはとてもいい環境であろう。しかし、治療に長い時間がかかってしまったり、そもそも寝たきりになってしまった人にとって殺風景な病室は精神的なストレスとなってしまう可能性がある。

 本当の人の健康というものは何も病気をしていないだけが健康であるというわけではないだろう。世界保健機関(WHO)では健康を「Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity. 」「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます※2。」と定義している。このように健康とは病気や障がいを持っていないということだけではなく、精神的に満たされているか、社会的に満たされているかということが重要になってくる。つまり、人間が本当の意味での健康でいようと考えたら、体だけでなく心も社会的立場も満たされていなければならない。私は病棟での療養は人の体を癒すという面においては良いと思うが精神的、社会的に健康にしようと思うとやはり在宅での療養が一番だと考える。

 今、私はなぜ在宅での療養、在宅死というものが大事なのかについて書いてきた。これからこの1年間を通して自分の理想とする社会の完成に向けて活動してきたかを書きたいと思う。

 私は去年の二月から小規模多機能型居宅介護施設ユアハウス弥生という認知症の方々を受け入れている老人介護施設でボランティアをしてきた。ユアハウス弥生さんでは基本的に自分のご自宅で暮らされている高齢者の方々に昼間の間みんなの共同の休憩場所のような施設にきていただき自由に過ごし、夕方に自宅に帰るというサービスを行っている。なぜ私がユアハウス弥生さんと一緒にボランティア、ゼミでの共同をしてきたかというと、ユアハウス弥生さんでは私が理想とする在宅介護、地域の中での療養というものを実現していたからだ。ユアハウス弥生さんでは「認知症をお持ちの方等、介護が必要な方に対して、「訪問」「通い」「泊まり」の3つのサービスを組み合わせて提供し、今までの人間関係や日常生活をできるだけ維持できるようにお手伝い致します。24時間365日切れ間無く提供できるのが大きな特徴です※3。」とあるようにそこで行われている食事や、その日の外出のスケジュール、そもそもユアハウス弥生に来るかどうかも全て、入居者様の自分の意思で決めるというようなサービスを行っている。

 全てが本人の意思で決まるため、お酒が好きな人は外に出かけて飲みに行ったり、山が好きな人は介護士の方と山に行ったりしている。一般的に認知症になってしまった人は何もわからなくなってしまい、外に出すことも危なくてさせてあげられない、ひどい場合だとどこにもいけないようにベッドに高齢者の方々をくくりつけている場合もある。このような状況は高齢者の方々にとってその人の「普通」や、やりたいことができる環境ではない。私はボランティアを始めた当時は私も認知症=何もできない何もできない人だと考えていたため「認知症の方にそんなに自由に生活させたら危ないのではないか。高齢者の方々の好きなものを食べたり飲んだりしていると健康に良くないのではないか。」と主任の方に伺った。すると主任の方がこのように答えた。「ここに来られている方々は80代から90代近い人がよく来る。

 また、ここに来る人たちは何かしらのご病気を抱えてここに来る。そのため利用者さん達の命はこの先あまり長くないと考えると、多少身体的な健康から外れたとしてもその人が本当にやりたいことをさせてあげることで、その人の幸せにつながるのではないか。そうすることが人間として生きるということではないのか。介護福祉士は利用者様方を縛り付けることはとても簡単なことだ。しかし、それをしてしまうとご利用者様方が人で無くなる。本当の介護とは、身体だけでなく、心の面の幸福感もしっかりと見ることが必要なのではないか。」と話してくださった。私はユアハウス弥生さんでの活動を通して、人を幸せにするのは何も身体が病気を持っていない状態のことを言うのではなく心も、社会的にも満たされたことを言うのだと考えた。

 心が満たされた状態で最後の時を迎えることができれば本人は後悔なく逝くことができ、周りの家族も穏やかな気持ちで見送ることができる。このことは、『余命半年』という本では「患者さんの静かな死を迎えることに何よりも良かったことはご家族みんなが笑って過ごせる時間があったことだ」と書かれている※4。また、『最新緩和医療学』では末期の患者さんに対するモルヒネの投与について「モルヒネ投与は痛みが取れ活気が戻ることで寿命が延びる可能性があると推測される※5」と書かれている。つまり、余生があとの頃短い患者さんに対しては病気の治療をすることによる寿命の延長よりも心の安定の方が優先順位が高いということである。

 このように、患者さんが身体的にはもちろん精神的にも社会的にも健康であり続けるためには病院ではなく在宅、地域の中で生活することが必要だと考えた。そうすることによってその人にとっての幸せな最期というものが実現でき、私の理想とする社会が実現できるのではないだろうか。

 

参考資料、引用文

※1 『聖路加国際病院 訪問看護科ー11人のナース達』(新潮新書)2007年 著者 上原善広

※2 公益財団法人日本WHO協会 「健康の定義について」から引用

※3 ユアハウス弥生HP 「小規模多機能型居宅介護とは?」から引用

※4 『余命半年 満ち足りた人生の終わり方』(ソフトバンク新書)2009年

    「第1章 緩和治療とは何か」から引用(一部編集)著者 大津秀一 

※5 『最新緩和医療学』 (最新医学社)1999年 (一部編集) 著者 恒藤 暁 

※6 『いのちのおはなし』(講談社)2007年   著者 日野原重明